2008年05月01日
考古部門番外編:韓国博物館・遺跡見学自主研修2
好評(?)の韓国自主研修記その2です。本日(3月21日)は扶余に出かけます。
第2日目 ==(扶余・国立扶余博物館・定林寺址・扶蘇山城址)========
5:30 起床
6:30 クラウンホテルから、タクシーで南部バスターミナルへ
・7:10発扶余(プヨ)行き、高速バス(直通)切符を購入する。日本語は通じないので、韓国
語か英語が不可欠。
扶余までは高速道路を利用して、直行バスで約2時間。料金は12,200ウォン(約1,280円)
と格安。ローカル方面のためか、バスはやや古い。シートベルトの留め具が日本と型式が異
なるのが面白い。
ソウル南部バスターミナル
切符売り場のようす。日本語はまず通じない。扶余行きの直行バスは1時間に1~2本出ている。
9:00 扶余市外バスターミナル着。徒歩で国立扶余博物館へ向かう。
階伯将軍像
バスターミナルから博物館へ向かう途中のロータリーにある。扶余に攻め込んだ唐・新羅連合軍と戦い、壮絶な最期を遂げた百済最大の英雄だそうである。
国立扶余博物館外観
バスターミナルからは歩いて20分くらいで着く。昨日あたりはまだ若干鼻がむずむずしたりしていたが、今日は全く平気である。天気も良く非常に快適に外を歩くことができる。
9:30 博物館入館。入館料は1,000ウォンと、格安。
・常設の展示室は、第1展示室(百済以前の先史時代遺物)・第2展示室(百済の生活文化)
第3展示室(百済の芸術)・朴萬植教授寄贈室の4つに分かれているが、この日は一番見た
かった第1室が改装のため閉鎖されていた。
金銅製大香爐(6世紀)
陵山里寺跡から1993年に発見され、韓国の国宝(第287号)に指定されている。高さ62.5㎝と大型で、蓋・身・足の3つの部分が別々に鋳造され、組み合わされている。公州の武寧王陵の副葬品と共に、百済の金属工芸の水準の高さを示す資料とされている。
金銅観音菩薩立像(7世紀)
窺岩面の寺跡から1970年に発見され、国宝(第293号)に指定されている。高さ21.1㎝。窺岩面は扶余邑とは白馬江を挟んだ西側に位置していて、後述する王興寺のあったところである。この仏像が王興寺と関連しているかどうかは、調べた限りではわからなかった。
ケース内にあったアートソーブ(調湿剤)
韓国でも使っていることを発見し、思わず撮ってしまった。このあたりが学芸員の悲しき性である。なお左上に写っているのは、1919年に扶蘇山城跡で発見された金銅釈迦三尊像(6世紀)。宝物(日本の重文にほぼ相当)第196号である。
・ 「王興寺展」を見学、塔礎石跡から出土した鎮壇具に圧倒される。
王興寺は6~7世紀に百済の都だった扶余(当時は泗沘)にあった寺で、従来は、600年以
降の創建とされていた。しかし2007年、国立扶余文化財研究所の発掘調査で、塔礎石跡か
ら金・銀・青銅の舎利容器が入れ子状態で出土、刻まれていた文字から577年2月に創建
されたことがわかった。日本書紀には577年11月、飛鳥寺建設のため百済王から技術者が
日本に送られ、588年に仏舎利が届いて造営を開始、596年に仏塔が完成したとあることか
ら、当時の百済と日本との関係が再び注目を集めている。
舎利容器
左から金・銀・青銅製。青銅製容器に「丁酉年二月十五日、百済王昌、為亡王子、立刹。本舎利二枚葬時、神化為三。」と刻んである。
舎利容器とともに出土した玉類
周囲の糸状のものはガラス玉。中央部に勾玉がみえる。
中央部のアップ
勾玉のうち下から4点はヒスイと思われる。韓国で出土するヒスイ製勾玉については、現在のところ朝鮮半島内で原産地や製作遺跡が発見されていないことなどから、日本からもたらされたものとするのが一般的である。したがって、本資料も日本でつくられたものなのであろう。
ミュージアムグッズ
いろいろ扱っていたが、写真はTシャツとクッション。絵柄は窺岩面の外里遺跡から発見された画像塼(せん レンガの一種)。写真ではわかりにくいが、表面に金色の粉ちりばめられているが、一度洗ったら全部とれてしまうのではないかと心配。
11:00 定林寺址博物館・定林寺址見学
・近年、定林寺の東隣にオープンしたばかりの博物館を見学。入館料は1,500ウォン。寺の
建立の様子(木組み・造瓦・造仏など)が、大形の模型を使用して復元されており、迫力が
ある。
現在、定林寺講堂回廊跡の西北部が発掘中。昼休みで調査員が不在であった。調査トレ
ンチの横から断面を観察。版築の様子がよく分かる。多量の瓦出土。
定林寺址博物館の外観
2006年9月オープンの新しい博物館。パンフレットによれば、建物の平面形が卍形をしているとのことだが、あまりそのようには見えない。
五層石塔建築のジオラマ
65%の縮尺模型で、迫力がある。このほかにも、瓦の製作工程を再現したジオラマなどがあった。
発掘調査の再現
実際の遺物を使って発掘のようすを紹介しているコーナーの一部。
遺物実測の再現
使われている道具は日本とさほど変わらない。金属製のものさしの先が土器に刺さっているようでこわい。
定林寺址(南から)
左に見えるのがジオラマで再現されている五層石塔。奥が最近復元された講堂。定林寺は門・塔・金堂・講堂が直線状に配置される典型的な百済時代の伽藍配置。これが日本に伝わり、四天王寺(大阪)などの伽藍配置となったといわれている(四天王寺式)。発掘は講堂の西側で行われていた。なお「定林寺」という寺名は、高麗時代(1028年)に再建された時につけられたもので、百済時代の名は不明である。
五層石塔
国宝第9号に指定されている。660年に唐と新羅の連合軍により百済が滅ぼされた時、都だった扶余は徹底的な破壊を受けた。その中で唯一往事の姿をとどめているのがこの塔であるという。塔には戦勝を記念して唐の将軍が刻ませた「大唐平百済国碑銘」と題する碑文があり、そのためこの塔だけが破壊をまぬがれたという話もある。
石仏座像
宝物第108号。高麗時代の作だが、頭部と冠は後代のものであるという。講堂の中に安置されている。講堂が復原されるまでは風雨にさらされており、そのため摩耗がはげしい。
発掘調査状況
位置からして回廊部の調査と思われるが、ちょうど昼時で調査員が不在だったため、詳しいことはわからない。断面には版築や焼土層らしいものがみえる。瓦片も出土していた。
12:40 扶蘇山城址見学
・徒歩で扶蘇山城址へ向かい、散策路の順路に従い山頂部近くの竪穴住居や倉庫跡など
を見学し、落花岩へ向かう。
扶余市街
扶蘇山の最高地点である泗泚楼からの南西方向のながめ。遠くに白馬江にかかる百済大橋が見える。
百花亭
扶蘇山城見学のハイライト。このあたりは白馬江を望む断崖絶壁で、百済滅亡の際3,000人の官女がここから身を投げたという。その様子がまるで花が散るように見えたことから、ここを落花岩とよぶようになったそうである。落花岩の上に建っているのが百花亭で、展望台になっている。
白馬江
百花亭からのながめ。上流方向(北東)を見ている。下に見えているのは白馬江遊覧船と船着き場。なお「白馬江」というのは扶余付近で使われている名称で、正式には錦江という。この河口が高校でも習う白村江という説もある。
14:10 白馬江下り
・百花亭から急坂を一気に下り、船着き場へ。そこから白馬江を水北亭までチャーター船で
下る(42,000ウォン)。今回は時間が合わなかったが、定期船で行けばもっと安い。
船上からのながめ
画面左が船着き場、右はじに落花岩が見える。かすかに百花亭も見えている。白馬江の流れは非常にゆるやかで、どちらに流れているのかわからないほど。途中すれ違った船では、大勢の乗客が音楽に合わせて踊っていた。結構以前から行われている「恒例の行事」らしい。
14:40 遅い昼食
・水北亭船着き場近くの店は軒並み閉店中。しばらく歩き、ようやく開いている店を見つけ飛
び込む。メニューはすべてハングル。日本語はもちろん、英語もだめ。何とか意思疎通がで
き、やっと食事がとれた。
15:25 バスターミナルへ
・タクシーで市外バスターミナルへ戻り(4,000ウォン)、15:40ソウル行高速バス(直通)の
切符を購入。車中は熟睡。
18:00 ソウル南部バスターミナル到着
このあと地下鉄を乗り継ぎ、新村で夕食をとりました。ホテルには22時頃到着。この日は遠出をしたうえ、かなり歩いたので結構疲れましたが、非常に充実した一日でした。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。次回は民俗村の巻です。ご期待ください。
投稿者 : 人文課 | カテゴリー : 考古部門活動記録